教本『大自然の法則と人間の使命』
第一章 見えない世界の存在
凡例:金枠=原典(暗記対象・出典付き。主に『諸法の原理原則』に依る)/灰枠=〔編者注〕・譬え・具体例(原典の言葉ではない)/〔出典:…〕=地の文中の典拠。教義は不変、原典は実在テキストからの引用のみ。通常の地の文=原典に基づく編纂側の解説。説明は必ず「原典のどこにこう書かれているか」を示しながら進める。原典引用は振り仮名の重ね書きのみ整えた(正本では保持)。なお『諸法の原理原則』の括弧内は、同書「はじめに」に「表題と括弧内は編集の補足説明である」とあるとおり同書の編者の補足であり、原本のまま残した。また同書の「大自然」は、同書の「編集者注」(100頁)に「宗教色をなくすため、『神、佛』を『大自然』と改称させていただいた」とあるとおり同書の編者の用語であり、当来佛は「大自然、即、神佛ではない」とされている〔出典:諸法の原理原則 100頁 編集者注〕。
宇宙は一つの「決まり」に貫かれている
宇宙には、何万・何億という天体が存在し、何百億年もの間、一瞬の乱れもなく規則正しく運行し続けている。地球は一日に一回自転し、一年をかけて太陽の周りを公転する。この精密な動きの上に、昼と夜、春夏秋冬、そしてあらゆる生命が成り立っている。ここで問うべきは、「なぜ物は落ち、星は巡るのか」という個々の仕組み──それは物理学が答える──ではない。もう一段深い、「なぜ宇宙には、そもそも破られることのない“決まり(法則)”が在るのか」という一点である。
原典は、この問いに正面から答えている。法則は、あとから誰かが作ったのではなく、初めから常に在る、と説く。
【原典】第一章 第三理 法は、元来、常住する 『諸法の原理原則』
宇宙間のあらゆる万有、諸行は、一定の決まり、法則に基づいて運行されている。それは初めから、常に「法」が存在しているからだ。
── 出典:諸法の原理原則 第1章「実在」14頁
つまり、天体の運行も、水が高きから低きへ流れることも、季節の巡りも、この「初めから常に在る法(常住の法)」の現れである。だからこそ世界は乱れず、安定している。個々の法則の中身ではなく、「法が“在る”」というこの事実そのものが、見えない世界への入口になる。
では、その法を能かせている大自然(神佛)は、どこにあるのか。原典は、どこか一点に鎮座するものとしてではなく、宇宙のすみずみに常に行きわたる能きとして捉える。
【原典】第一章 第二理 大自然は遊在する 『諸法の原理原則』
「大自然(神、佛)」は、宇宙間に「常住」「遊在」し、あらゆる万物に対して「融通無碍」である。
── 出典:諸法の原理原則 第1章「実在」11頁
この「遊在」の一語は重い。大自然の能きが万物のすみずみに及んでいればこそ、身の回りに起こる一つひとつが“無関係な偶然”ではなくなる。後の、どんな出来事にも意味があるという教えは、ここに根を持つ。
同じ問いは、自分の命にも向かう。私たちは「目を覚まそう」と決意して目覚めるのではない。眠っている間も心臓は打ち、細胞は分裂し、体温は保たれる──いずれも意志の外で、寸分の狂いなく営まれている。「自律神経の作用だ」と説明することはできる。だが、その自律神経もまた、より大きな秩序の一部として能いている。仕組みを一段ずつ遡っても、最後は原典の言う「常住の法」に行き着く。
この見えない能きを、原典は「自然」という語そのものに読み取る。「自」は「おのずから」、「然」は「そのようになる」。何かの力によっておのずからそうなっている姿が「自然」であり、その力を古来「神・佛・天・主・命」と呼んできた(近年、一部の物理学者も「サムシング・グレイト」「宇宙意識」「創造主」と呼び始めている)。そして原典は、その能きから一切の万物が産み出され、ゆえにすべての現象に意味があると述べる。
【原典】用語解説「大自然」 『諸法の原理原則』
ここでいう「大自然」とは、神、佛、天、主、尊、創造主、造物主、サムシング・グレイト、超能力、超自然、等といわれる存在で、「見えない力」の根源、「法則の元」「宇宙の意志」を指す。(神、佛、天など全て同義、同体、同質、一体、同じもの)
── 出典:諸法の原理原則 用語解説「大自然」(前付)
【原典】第一章 第五理 万有は、意趣の所産である 『諸法の原理原則』
一切万有は、大自然の意趣により、産み出される。だから、あらゆる現象(出来事)には、皆、何らかの意味、大自然の意図がある。
── 出典:諸法の原理原則 第1章「実在」19頁
(万有意趣の所産の法則──すべての存在には意味・目的がある。偶然はない)
──ここで、この教えの性格を見誤らないことが肝心である。以上は「まず信じよ」と迫る主張ではない。なぜなら原典は、「これを『正法の三具』と言い、正しい法、法則の条件である」と、正しい法の条件そのものを掲げているからだ。
【原典】第一章 第四理 法は普遍平等、絶対確実に能き、妥当な理に成り立つ 『諸法の原理原則』
これを「正法(しょうぼう)の三具(さんぐ)」と言い、正しい法、法則の条件である。法の能き(運用、行使、活用)は、一定の法則に基づいて、時間、場所、機会、相手を問わず普遍的「平等」である。そして同一条件下で、絶対「確実」に効果結果が現れ、誰でも納得し得る「妥当」な理屈、理論の上に成り立つ。
── 出典:諸法の原理原則 第1章「実在」17頁
普遍平等・絶対確実・妥当──この三つ(正法の三具)を備えるがゆえに、法は誰にでも、同じ条件なら同じように現れ、確かめることができる。だからこの教えは「信仰」ではなく「学問(形而上学)」を名乗る。さらに原典は、その“確かめ方”の物差しまで定めている。
【原典】第二部 第十八則 正教の条件 『諸法の原理原則』
大自然の「示現・勅旨(霊的観応)」は、常に「現実」と「法理・教理」と不離一体にして、必ず一致する。これを「教法の三位一体」という。
<正教> 正説・正教は、形而上、下両立の教えで、「普遍平等」「理義の適正妥当」「絶対確実」の正法の三要素を具備。また、「四適の事」を具備していれば、必ず正法の三要素は具備するもの。必然的、必定的な自然の現象の法は絶対確実。人知や仮説の理論では「絶対」は存在、成立しない。また、「法理」と「現実」と「ご神示(霊観応)」の三位が一体すること。この三位が一致しないときは、教理が正しくないか、神示が何事かを解れ、悟れと言われる方便なのか、どちらかであって、正しい判断の基本となるものである。*当来佛は、正教の定義のみで、邪教の定義はされていない。
── 出典:諸法の原理原則 第2部「大自然の動き、能きの定理」134〜135頁
図1の読み方
図1は三つの輪として読む。「法理(教え・教理)」=「大自然の法則・当来佛の教え」、「霊観応(ご神示・絵姿)」=「示現・勅旨=霊的観応で受ける指示」、「現実(出来事・現象)」=「目の前に実際に起こること」。この三つは「必ず一致」する。原典は「大自然の示現・勅旨(霊的観応)は、常に『現実』と『法理・教理』と不離一体にして、必ず一致する」と説く(第十八則 正教の条件)。これを「教法の三位一体」という。大切なのは一致しないときの読み方で、そのときは「教理が正しくないか、神示が何事かを解れ、悟れと言われる方便なのか、どちらかであって、正しい判断の基本となるものである」。独断に落ちないための物差しが、この三つである〔出典:諸法の原理原則 第二部 第十八則 正教の条件 134頁〕。

すなわち、「或る存在」が在るか否かも、法理(教え)と現実(出来事)と霊観(ご神示・絵姿)の三つを照らし合わせ、一致するかどうかで確信していける。信じ込むのではなく、確信していく──それがこの教えの立て方である。
その確信していく歩みの第一歩は、否定しようのない事実に足場を置くことだ。
【原典】第一章 第一理 実在するものは、実在する 『諸法の原理原則』
事象、現象が実在するということは、実際に在るからで、否定することは出来ない。
── 出典:諸法の原理原則 第1章「実在」10頁
目の前の現象が「在る」ことは、誰にも否定できない。この揺るがぬ事実から出発して、「ではなぜ在るのか」「そこにどんな意味があるのか」を、法理と現実に照らして確信していく──それが、本書のこれからの歩みである。
人間は「させられている」
「生まれたくなくても生まれ、死にたくなくても死ぬ。幸せを願って日々努めるのに、なぜ不幸に見舞われるのか」──古来、多くの人がぶつかってきた問いである。この教えは、その答えを「させられている」という一語に置く。人間をはじめ動植物・鉱物・天体に至るまで、宇宙のあらゆるものは、人や動物の意志の外にある「或る大きな力(エネルギー)」によって、刻々と動かされている、と見る。物理的・生理的な営みも、日々移ろう運命も、その能きの現れだというのである。
なぜ、そう言えるのか。前半で見たとおり、原典は「一切万有は大自然の意趣により産み出される」と説いていた(再掲)。
【原典】第一章 第五理 万有は、意趣の所産である 『諸法の原理原則』
── 全文は 第一章「宇宙は一つの『決まり』に貫かれている」 の項に既出(諸法の原理原則 19頁・標題と頁は図6)
万物が意趣の所産であるなら、そこに起こる出来事もまた意趣の内にある。だから「させられている」とは、“自分の外の力に振り回される”という意味ではない。“人に起こる出来事には、必ず何らかの意趣(意味)が含まれている”という意味である。ここを取り違えてはならない──これは、人間が無力だと言っているのではなく、人は出来事を通して、気づくべきこと・改めるべきことを知らされている、ということだ。
ただし、「偶然はない」と知るだけでは足りない。出来事に意味があるなら、そこには必ず「何に気づき、どこを直すべきか」という問いが含まれているからだ。その“直す方向”を読むために、原典は因縁果の法則を置く。
【原典】第二章 第五理 万有、諸行に因果律がある 『諸法の原理原則』
現在の相、体、性は、過去の力、作の因縁による報果であり、現在の力、作が因縁となり、未来の報果を生じる。現在の状態は、過去の「因縁」を背負い、未来の「果」を孕(はら)んでいる。宇宙万有の様相は、ただ因、縁、果の繰り返し流転、輪廻に過ぎない。
── 出典:諸法の原理原則 第2章「万有、諸行は無我」35頁
(因縁果の法則:善い原因・経過は善い結果を生み、悪い原因・経過は悪い結果を生む)
いまの状態(現在)は、過去の因縁が結んだ果であり、いま何を思い・行うか(現在の力・作)が、次の果の因縁になる。過去→現在→未来は、切れずに因・縁・果でつながっている。つまり、いまの苦しみには過去に辿れる原因があり、いまの心掛け次第で未来は変えられる──ここに“直す方向”が見えてくる。
では、その因縁は、どのように結果として返るのか。原典はさらに具体的に述べる。
【原典】第二章 第六理 万有、諸行は因果応報する 『諸法の原理原則』
あらゆる万有、諸行は、「力」「作」の能きの「因縁」の度合いに応じて、「報果」に現れる。善因善果、悪因悪果。「善業」の因縁は、能(よ)く「善果」を生じ、「悪業」の因縁は、能く「悪果」を応報する。あらゆる物質の物理的、化学的変化も、また人間の生活の上で起こる現象も、全て、因果応報による影像(えいぞう)の変化、流転である。因縁の度合いに比例して報果が生じる。
── 出典:諸法の原理原則 第2章「万有、諸行は無我」37頁
(因果応報の法則:行為・心の持ち方は、必ず相応の結果として返ってくる)
善い因縁は善い果を、悪い因縁は悪い果を、その度合いに応じて生む。物質の物理・化学変化も、人の暮らしに起こる出来事も、例外なくこの因果応報の流転の中にある。だからこそ、「どうしてこんなことが起きたのか」と原因を問うことに意味があり、「ここを直せば変わる」と応じることができるのだ。
こうして「させられている(=意趣がある)」→「因縁果・因果応報で辿れる」と来て、残るのは“では、どう扱うか”である。原典は、その具体的な手順を三法印として示す。
【原典】当来佛の三法印 『実踐哲学の学び(その2)』
一、(すべての事象は神佛に)させられている。/二、(神佛からの意図があり)知らせの解明。/三、(神佛にその意味を問う)ご神示による解明、行動。
── 出典:実踐哲学の学び その2「さとりの検証」・当来佛の三法印
〔編者注〕 旧佛教では、一切皆苦を数に含めれば四法印(諸法無我・諸行無常・涅槃寂静・一切皆苦)、含めなければ三法印(一切皆苦を除く同三つ)と、二通りに数える(いずれも正しい用語)〔出典:掘り下げ(改訂版)第一部第一章=四法印/実踐哲学の学び(その2)第三部「究極」=三法印〕。当来佛の三法印(①させられている ②知らせの解明 ③ご神示による解明・行動)は、これと独立の独自の教えで、旧佛教を典拠とされたものではない(「当来佛は旧佛教を学ばれたことも、その必要もなかった…図らずも旧佛教と同一点が多数有った」)〔出典:実践(形而上学)〕。旧佛教で「一切皆苦」に当たる内容は、当来佛では「人生は一切皆苦だが、させられるから『知らせ』である」として捉えられている〔出典:実踐哲学の学び(その2)第三部「究極」〕。
図2の読み方
図2は上下二段に読む。上は原典の三段 ──「① させられている」=「すべての事象は神佛に させられている」、「② 知らせの解明」=「神佛からの意図(御意趣)があり、その知らせを解明する」、「③ ご神示による解明・行動」=「神佛にその意味を問い、解いた意図に沿って行動する」。下は本書 第六章での言い換えで、①は「知らせと受けとる」──「目の前の不運や『相手のせい』で止めず、大自然が自分に何かを教えていると受けとる」、②は「御意趣を解く」で物差しは「正教の条件」(図1・図13)、③は「実践してさとる」──「解いた意図に沿って行いを改め、知らせを根から解消する」。下の枠が全体の要で、苦(貧・病・争)は罰ではなく知らせである。「人生は一切皆苦だが、させられるから『知らせ』である」〔出典:実踐哲学の学び(その2)第三部「究極」〕。その「させられる」の能きの一つが、原理原則の均衡矯正運動である ── 歪みができれば、大自然はそれを正す方へ絶えず能いている(第二章「歪みは矯正される」)。

【原典】第二章 第一理 万有、諸行は、諸法無我である 『諸法の原理原則』
あらゆる万有、諸行は、常に大自然による「自然調節・制御作用」を受けている。それを「諸法無我」という。だから「無為、無作」も可能になる。
── 出典:諸法の原理原則 第2章「万有、諸行は無我」22頁
すべてが「させられている」のなら、人の責任はどこにあるのか。原典の細目は、この問いにこう答えている。
【原典】第二章 第一理の細目 心掛けと自然調節制御作用・させられるとデータ・歪みの矯正 『諸法の原理原則』
「心掛けと自然調節制御作用」 人が善い道を走るか、悪い水道を流れるかのポイントの切り替えは、大自然がされる。心掛けに応じて(大自然が)される。例えば朝、なぜ目が覚めるか?心臓が動く、排泄作用がある。暑いと、汗で温度を下げる。寒い時に、毛穴が閉じ、暑い時には、毛穴が広がる。それを、自分が勝手に毛穴を閉めようと思っても出来ない。皆、自然調節作用(制御作用)を受けているからだ。「己がやれる」と思うのは、自惚れである。
「させられるとデータ」 「させられている」というのは、一応「データ」を入れなければ成らない。きちんきちんと、正しい「データ」を入れなければ、正しくオートメーションで動かない。大自然は、コンピューターと同じ。間違ったデータを入れると間違った答えが出るし、正しいデータを入れると正しい答えが出てくる。正しい「データ」が入っていないと、殴ったら殴り返されるのも仕様がない。「させられる」というが、「心掛け」はそれぞれ各自の責任。
「歪みの矯正」 あらゆる諸行は、常に「均衡矯正運動」の持続でもある。あらゆる不均衡、歪みは、絶えず矯正されつつあり、過度(不足)は歪みである。
── 出典:諸法の原理原則 第2章「万有、諸行は無我」22〜24頁
まず、起きた事象を「させられている(=知らせ)」と受け止める。次に、そこに込められた意図(知らせ)を解く。そして、ご神示によって意味を問い、具体的な行動へ移す──「偶然はない」という理解から一歩進んだ、実践の道筋がここにある。出来事の意味を知り、心と行いを修め、大自然の意図に沿って生きる。それが、この教えの説く“豊かさ”への道である。
なお、ここで言う「或る大きな力」「或る存在」とは、前半で見た、宇宙を貫く常住の法を能かせている大自然にほかならない。歴史的には「神・佛・主・天・命」と呼ばれ、近年は一部の物理学者が「サムシング・グレイト(偉大な何か)」「宇宙意識」「創造主」とも呼ぶ。その存在も、「させられている」という見方も、初めから信じ込むのではなく、法理と現実に照らして──次章以降で──確信していけばよい。